海の見える街で(上)

 夫からの電話は突然だった。彼は、旅にでたまま帰らない私をとがめるでもなく、理由をきくわけでもなく、「僕になにができる?」と言い、私は食器を少し送って欲しいとだけ言った。
 数日後、夫が大事にしていたビンテージのコーヒーカップと、フランスに二人で旅をしたとき、田舎町の雑貨屋で買った大小のお皿が送られてきた。飛行機の中、二人でしっかりと抱きかかえて持って帰ったお皿だ。ほかにも気泡のはいったガラスコップ、年号の印判があるカップ、エキゾチックな柄のサラダボウル、決して揺るがない彼の美意識の中にある食器が丁寧に梱包されていた。
 荷物を解きながら、私は、自分が欲しかったのはこんなものだったのだろうかと自問した。

 真紀子さんと孝夫さんが、ジャムのお礼にと孝夫さんが田舎の家で作ったベーコンを持ってきてくれた。真紀子さんは近所の子どもたちに絵本を読んでいる。孝夫さんは、そんな真紀子さんを見ながらコーヒーを飲む。
「ここ、ほかと何かが違うとずっと思ってたんだけど、音楽を流さないんだね」
「ええ。ずっと音が流れていると疲れちゃうので」
 音楽は喫茶店にありがちなガチャガチャとした雑音を消すために流すのだからと不動産屋さんが有線放送局の電話番号を教えてくれたが、私は手続きをしなかった。何か音が流れていると、人は自分の声を探そうとしゃべり声が大きくなる。緩やかな時間のなかで、静かな話し声だけが聞こえる。そんな店にしたかった。
「ゆりこさん、豆屋のマスターにきいたけど、最近ゆりこさんのことを調べている人がいるみたいよ」
「私も聞きました。誰でしょうね。うちなんか叩いても埃も出ないのに」
 笑いながら答えると、真紀子さんは、私たちで頼りになるかどうかわからないけど、何かあったらすぐに連絡してねと言った。

 二人が帰り、テーブルを片付けていると、ずっと眠っていた灰色さんがすくっと立ち上がり、ひらりと玄関の方に行った。カラカラと音がして引き戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
 顔を上げると、光のなかに思いがけない人が立っていた。「元気そうだね」
 私に旅を勧めてくれた日と同じ声で、光のなかの夫は言った。私は、うまい言葉が見つからず、小さく会釈した。
 窓辺の席に座った夫に、「何になさいますか?」と聞くと、彼は「この街をずっと歩いてたんだ」と言った。
「三日間ずっと歩き回ってみた。ここにあって、僕にないものを探していた」
 私はもう一度、「何になさいますか?」と聞いた。
「海の見える街というなら、ぼくたちの街にだって海はある。古びた家が良いなら、そんな物件はすぐにでも探せる」
 夫の耳には私の声は届いていない。私は小さなキッチンに下がると、丁寧にホットケーキを焼きはじめた。
「ふわっとしているけれど、ちゃんとしている。それは簡単なようで一番難しいことです。人もお菓子も」
 川村さんが生きていた頃、そんな表現でほめてくれたホットケーキだ。
 夫が送ってくれたフランスのお皿にホットケーキを盛り、バターをひとさじ乗せる。ゆるゆると円をかいてバターはホットケーキの上で踊り、ゆっくり染みこんでいった。
 夫は、張り出し窓でお日様の光を浴びていた小さな盆栽を眺めながら、「こんな少しの土でも、しっかりするもんなんだな」と言った。近所のお年寄りが、この窓に置くのが一番似合うと持ってきてくれたと言うと、彼は「そうか」と呟いた。
 彼が、私の作ったホットケーキを食べる姿を見るのはいつぶりだろう。ほかのお客さんなら少しも気にならないのに、彼の使うナイフやフォークがお皿にあたり音をたてるたび、私は落ち着かなくなった。
「私ね、誰かが嫌な思いをするくらいなら、自分が飲み込めば良いって思ってたの。そうすれば誰も傷つけないって」
 突然、早口でそんなことを言い出した私に、夫は顔を上げた。
「それは思いやりってことじゃないのかい。みんなが言いたいことをいいだすと規律は失われる」
「でも、この街に来て知り合った本屋の女将さんに、それは卑怯な生き方ねって教えられたの。人間は、本来誰かを傷つけながら生きているもの。傷つけないなんて傲慢だって。結局、自分が傷つくことを恐れてるだけ。守ろうとするほどヘマを犯すのが人間なんですって」
「そうか」
 夫は、それ以上反論することもなくホットケーキを食べる。彼は無用な争いごとには乗らない。

 夫と知り合ったのは、私がまだ二十歳になったばかりの頃だ。七歳年上の夫は、いつも私の先を歩く。彼は私の教科書で、私は夫といる自分が世間にどう見えるかばかり考えていた。一生懸命家を飾り、料理を作り、夫に負けないだけの教養も身につけたいと思っていた。そうすれば、やがて自分の中にある説明のつかない不安は消え去ると思った。
 でも、彼に守られれば守られるほど、私の不安は大きく膨らみ、とうとう私は夫から逃げ出した。

 夫は、ホットケーキの最後の一切れをゆっくり口に運び、フォークを置いた。
「僕には僕の思う夫婦の姿がある。その中に君がいてくれて、君は君らしく自由に泳ぎ、僕は君のために頑張る。それでうまくやっていただろ、僕たちは」
 夫の声はどこまでも穏やかで優しい。けれど、私はその声に乗せて流れ出る言葉に胃の奥が痛くなる。
「会社を無くし、あなたにも迷惑をかけたわ」
「迷惑だなんて思っていないよ」
「あの時、もし、あなたがいなかったら、私には何が残るんだろうって思ったの」
「困るようにはしないよ」
「そうじゃないの・・・」
 私たちの会話は、少しも交わっていかない。
 夫は、また窓辺の盆栽に目をやり「思い通りの形になるまでに、どのくらいかかるんだろう」と呟いた。
「世の中に、思い通りになることなんて、あるのかな・・・」
「そりゃ、必ずあるだろう。そう思うから頑張れる」
「必ず・・・」
 その時、たぶん、私の顔に絶望の影が走ったのだ。夫は、それに気づき、二人の間に会話はなくなった。お湯の沸くしゅんしゅんという音だけが響いている。
 夫が、覚悟を決めたように口を開いた。
「君が家を出たまま帰らなくなったときからずっと考えていたんだ。君に何も与えられない僕なんて、なにをよすがに生きればいいんだ」
「え?」
「守るべきものがないということが、いかに頼りないものか初めて知った。考えても考えても答えが出ない」
 夫のこんな気弱な姿は初めて見た。彼の中に常にあった余裕や自信が行き場を失っている。

 私は、喫茶店の本棚からフォトブックを引き出すと夫の前に置いた。家を出たあと、スマートフォンの中にあった夫との写真をまとめたものだ。彼は、ゆっくりページをめくった。
「あんな風にして出てしまったのに、どうしても消せなかったの。私は、自分が選んだことをすべて正しいなんて今も思えない。そんな潔い人間にはなれなかった。未練も後悔もあるわ。この写真を見ながら泣いたことだってある。でも、与えられるだけの人生には戻れないの。ごめんなさい」
 アルバムをめくる手をとめた夫は、「あんなに頑張っていたのに、あとから見ると滑稽だな」と言った。
「私には、すべてが愛しい思い出だわ」
「そうか。でも、きっと君は、あの頃はそうは思っていなかった。これを見ながら自分なりの思い出を組み立てて行ったんだよ」
「塗り替えたってこと?」
「僕などいなくても、君は最初から君の世界を作れたんだよ。それが君の強さだ」
 夫は、なんとか自分の自尊心を傷つけず君を連れ戻せる策はないかと考えているうちに時間はどんどん過ぎていったのだと言った。その間に、自分の手から離れていった妻はスピードを上げますます離れていく。焦るうちに三年の月日が過ぎた。
「この期に及んで、まだ思っていたんだ。こんな小さな喫茶店など何になるかって。ところが、街を訪ね歩いていたとき、会う人会う人が、君になにか危害を与えたりしたら絶対に許さないという顔をする。僕は完全に敗北者だな」
 夫は、君の思い出だとアルバムを私に手渡すと、
「例の赤い船を見たよ。写真で見たときには小さな船だったのに、意外に大きくて儚げじゃなかった。まるできみだ。僕はきみを見ていなかったのかもしれないな。いや、本当の君を見るのが怖かったのかもしれない。守られていたのは僕だ。君に好かれたいと無理をしていたようだ」

 私と夫は、誰もがうらやむ夫婦だった。夫はフェミニストである自分に忠実で、私たちは、雑誌に載るような素敵な夫婦を演じていた。
 ただ、誰かから見られる自分たちを尊重するがために、心の奥深いところにあるものを見ないように生きてきた。
 夫は立ち上がると、「良いご趣味だ。このカップにコーヒーを一杯いただけるかな」と、自分のお気に入りだったビンテージカップを棚から取り、私に差し出した。私は、両手でカップを預かると「かしこまりました」と笑った。
 二人のやりとりを見ていた灰色さんが、夫の足元に身体をすり寄せ「ようこそ路地裏喫茶店へ」と囁いた。(了)
路地裏喫茶店 | 海の見える街で(上)
掌説 まちの風景
登場人物
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