海の見える街で(上)

「だから、まりこねさん言ったじゃないですか。ここは細編み五つですってば」
 日曜日の午後、路地裏喫茶店の窓辺で、まりこねさんに編みぐるみの手ほどきをしている。まりこねさんが、手芸はたいてい何でもできるのに編み物はまるでだめで、一から教えて欲しいといってきたのは三日前のこと。初めてのくせに、クマの編みぐるみが編みたいと言う。「球体に仕上げるの意外に難しいんですよ」と言っても、それじゃなきゃダメなのだと聞かない。行きつ戻りつしながら、ようやく頭が編み上がったところで休憩となった。
「ゆりこさん、結婚してたんでしょ。お相手は、いまどこにいらっしゃるの」
「さぁ」
 私の曖昧な言葉に、まりこねさんは、
「そりゃ会わないか。別れたんですものね。ごめんごめん」
 と言うと、一本タバコを吸ってくると表に出た。

 私と夫は、誰もがうらやむ夫婦だった。夫は、フェミニストである自分に忠実で、私が仲間と会社を始める、その相手は大学時代の恋人だと話しても、「相手の良いところも悪いところもわかっているから効率が良い。問題ない。応援するよ」と笑って賛同してくれた。たぶん、あの時、私は夫を試したのだ。だから罰が当たった。
 むかし付き合っていた男と女が共同で事業をすると言えば、すぐに勘ぐり、つまらぬ噂を流す人はいる。会社が順調であればあるほど、それは酷くなる。噂に踊らされ、事業パートナーだったはずの男が家を出てしまい、その責任は私にあると、彼の奥さんが半狂乱で会社に現れ、私は、男にすべてを譲る形で会社を辞めた。
 ずいぶん出資もしてくれていたのに、夫は私を責めることもなく、しばらくのんびりしていればいいさと言葉をかけた。私の気持ちは、もう一杯一杯だった。
 ある夜、帰りの遅い夫を待ちながら、ひとりでテレビをみていると、小さな島と港街を結ぶ赤い船が映し出された。特に島が好きなわけでも、船が好きなわけでもなかったが、なぎの海に浮かぶ儚げな船が自分のように思え、近くにあった雑誌の裏に島の名前をメモした。
 仕事から帰った夫に、旅に出ようと思うと話すと、彼は「そりゃぁいい。来週末は僕も休みが取れるから一緒に行くよ」と言った。ようやく、私がすべてを吹っ切ったと思ったのだろう、インターネットでありとあらゆることを調べて綿密なスケジュールをたて、彼らしい方法で私を励ました。
 しかし、翌日、私は彼が書いてくれたスケジュール表を破り捨て、ひとりで列車に乗った。

「まりこねさんは転勤でしたよね。この街に来られたのは」
「そう、仕事。それ以外とるものもないもの。ほんとは、そろそろまた転勤なんだけど、次の転勤の前に仕事を辞めようと思ってるの。結婚するから」
「え?」
 仕事以外とるものがないと言いながら、まりこねさんはさらりと告白した。でこぼこしたクマの顔を撫でながら、
「真紀子さんが結婚をきめたとき考えちゃったのよね。こうやって定年まで転勤を続けるのは、それはそれでおもしろいかもしれないけど、五十歳の時、私はどうしてるかなと思って」
 相手は教師で、ここから離れられないので、自分が仕事を辞めて残るしかないと言う。
「キャリアとかは」
「ああ、言ってたよね。若い頃は、そんなことばっかり言ってた。でも、私のキャリアって何だろうって思ったの。大きな会社の中で似たようなことを繰り返し、その部分はとても強いかもしれないけど、年々できることとできないことの差が大きくなってる」
 まりこねさんは、編み図を確認しながら、そうかそうかここがいけなかったんだと独り言をいって、また糸をほどきだした。
「ゆりこさんは、どうしてここに」
「ああ、私は・・・家出です」
「え?」
「嘘ですよ」と言って、私も自分のクマを編み出したが、考えれば旅に出るといって出たきり、あの家には戻っていないのだから、ほんとに家出のようなものだ。

 旅にきて二日目、この街ではめったにないという大嵐がきて船が欠航し、私は赤い船には乗れなかった。風が強いので部屋にいたほうがいいとホテルのフロント係にとめられたのに、ビニール傘をさして街に出た。傘はすぐに壊れ、ずぶ濡れになりながら歩いていると、古い家の玄関先で雨宿りをする灰色の猫と目が合った。
「あなたの家?」ときくと、猫は「そうだ」と答えた。いつも出入りしている窓にまで鍵をかけられ、中に入れず、ほとほと困っていると言う。
 私は、その家の窓に括り付けられた「FOR RENT」と書かれた看板の下にある不動産屋の連絡先に電話をし、この家を見せてほしいと頼んだ。不動産屋はいつにしましょうかと言い、今すぐと答えると、雨が強いですけど現場まで大丈夫ですかと聞いてくる。明らかに日を変えましょうという口ぶりだったが、私は家の前にいるのですぐに見たいと繰り返した。
 十五分ほどでやってきた不動産屋は、こんな雨の日にとあきれた声を出したが、それでも親切にタオルを差し出して、私が髪の毛を拭いている間に鍵を開けてくれた。猫は私が不動産屋の気を引いているすきに、するりと中にはいり闇に消えた。
「お嬢さんが借りるんですか。古い物件ですから住むのにはある程度手を入れないとね。お隣は倉庫代わりに使われてますから、そのままですけど」
 こちらが水場だ、こちらが収納だと案内しながら、不動産屋が私を値踏みしているのはわかった。最初に書いた見学のための書類の住所が遠い街のもので、借りたいという女もどこか頼りない。こんな女に貸して事件など起こされてはたまらない。
「喫茶店を・・・」
「お店ですか?」
「はい。古民家で喫茶店をしたいなって、ずっと探していて。仕事でこちらによく来るんですが、このおうちが良いなって思ってたんです。今日は雨で仕事が流れたので、ご無理を承知で見せていただこうと」
「都会の人は、へんなものを面白がるんですよね。ここなんか、まわりは年寄りばっかりですよ。こんなところにお店を開いても誰もこないかもしれませんよ」
 と、不動産屋は言ったけれど、そう言いながらも、島のほうじゃこんな古い家のカフェが流行っているようだ。自分はいい工務店を知っているので、ご相談にのりますよと話し出した。
 しばらく中を見せてもらって鍵を返しにいきますと言うと、不動産屋は、鍵は貸せないので、ここを出るときにまた電話をかけて下さいと言い出て行った。
 不動産屋がでていくのを確認したように、灰色の猫が出てきて「ありがとう」と言った。
「あんな嘘がすらすらでるとは思わなかったわ。この街に来たのは初めてだし、この家をみたのも初めてなのに」と猫に話しかけて笑うと、猫はにやりと笑い返し、「いろいろ考えず、ここに来れば良いんだよ」と言ってから、窓辺の棚にひらりと上がり眠りだした。

「できたできた。ゆりこさん、これクマに見える?」
 まりこねさんの声に顔を上げると、まりこねさんがクマのようなウサギのような宇宙人のような編みぐるみをぶらぶらとさせていた。結婚しようと思う相手は美術の教師で、なにかと忘れ物が多く、よく鍵を無くすのでこれくらい大きなものを付けておけば大丈夫だと思うのだと、まりこねさんは言う。
「お喜びになりますよ」と手芸箱を片付けようとすると、まりこねさんが「馬鹿みたいよね」とつぶやいた。
「こんなこと馬鹿みたいだなってずっと思ってたの。人に物をさしあげるなら、ちゃんとした物をちゃんとしたところで選んで、できれば形に残る物より消えてなくなるような物をと思っていたの」
「そんなことないですよ。今度、ご一緒に来て下さいね」
 ずっと、男には負けない、自分は自分、自分の人生は自分でつくると肩肘張って、普通の女の子の通る道を避けてきたのだと聞いたことがある。遅れてきた青春ってことだなと思っていると、灰色の猫がパンと棚から飛び降りて引き戸を開け、出て行った。

 まりこねさんの失恋というか夢は、ほどなく消えた。真紀子さんの五十歳の結婚をみて、一度は考えた退職も止めたのだという。理由は聞かないでと言うので、直接は聞かなかったが、しっかり者の四十女がどうしようもない男にひっかかる、よくある話だと真夜中書店の女将が話してくれた。

 たくさんできたジャムを瓶に詰め、真夜中書店と、真紀子さんのマンションに運んだ足で商店街の珈琲豆のお店に来た。もうひとつ残っていた瓶詰めのジャムと渡すと、昨日、ゆりこさんのことを尋ねる男が来たと言う。
「気を付けてくださいよ。なんかあったら、すぐに電話ください」
 豆を受け取りながら、うちには大家さんがいるからというと、豆屋のマスターが「灰色さん、お元気ですか?」と聞く。路地裏喫茶店の建物は、元々猫のご主人が持っていた長屋の一軒で、猫を残してご主人が亡くなったあとも、彼はあの場所を離れず、あの雨の日、私にあそこに住むように促してくれた。街のひとたちは、彼のことを「灰色さん」と呼んでいた。だから、あの家の大家さんは灰色さんだ。私は間借りしているに過ぎない。
 喫茶店を始めるまでは早かった。元は駄菓子屋だった三和土に、不動産屋さんや珈琲豆屋さんがくれたテーブルと椅子を置き、冷蔵庫ももらい物、オーブンもご近所のお年寄りがずっと使っていないからと運んできてくれた。駄菓子屋さんが使っていた小さな流しで私は何でも作った。みつ豆の寒天も、生姜の砂糖漬けも、お団子も、ホットケーキも、おぜんざいも、クッキーも。
 ぽつりぽつりとお客さんが付き始めた頃、夫から連絡があった。彼はとても冷静に「僕になにができる?」と聞いた。私は「食器をね、少し送って欲しいんです。あなたが使わないコーヒーカップとホットケーキのお皿・・・みつ豆を入れるカップも少し」と言った。夫は「わかった」というと、ほかは何も聞かず電話を切った。私たちらしいやりとりだった。
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掌説 まちの風景
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