こころの一番深いところ

 他愛のない話に、いったい何度笑っただろう。こんなことなら逢って話をすれば良かったねと言うと「そうだな。じゃ、また明日の九時に」と孝夫は電話を切った。私も電話を置き時計を見る。二人だけなら何時間でも話は尽きない。この時間がずっと続けば良いのにと思う。けれど、明日の朝、孝夫が迎えにきて、彼が生まれたまちへ行くことを思うと心は重い。

 四十をいくつか過ぎた頃、言い様もない焦りがやってきた。それまでの私は、なんだかんだ言って同期の中では充実した日々を送っていたし、頼りにもされていた。ところが、後輩たちが次々と結婚し、大学時代の友だちが、子どもの受験だローンだと憂鬱な顔をし始めると、大きな忘れ物をしたような気になって、ネットで知り合った男とつまらぬ恋に落ちてみたり、好きでもない上司と朝まで飲んだり、足りないピースばかり探す女になってしまった。
「真紀子さんにはしあわせになって欲しいのよ」
 騙されたと思って一度会ってみないかと、アパートの大家さんが孝夫を紹介したのは、去年の夏のことだ。良いところにお勤めなのに、家の事情でなかなか縁にめぐまれず、五十を過ぎたのだとおばさんは言った。独身仲間の女友だちに話せば「また夢子が夢見てる」と笑い、やめておけと言うだろう。私たちのなかで、結婚できない男は、結婚しない女よりずっと蔑すまれている。この年になって素敵な王子様など残っているはずがないことは、私にだって解っている。
 孝夫が初めてのデートで指定してきたのは、人通りの少ない路地裏の喫茶店で、灰色の猫が店の隅の黒い影の中で寝ていた。
 五十五にしてはやや老けて見えたが、質のいいものをこざっぱりと着こなし、嫌な印象はなかった。特に話が盛り上がったわけではないが、気まずいほど途切れることもなく、一度目のデートは終わった。ただ、孝夫も私も、紹介してくれた人の顔をつぶさぬようにと気を遣い、言葉を選び、結局それが二人の距離を縮めることを阻み、しけった花火のように付き合いは終わった。よくあることだと思ったが、別れてしまってからしばらく、何かにつけて孝夫のことを思い出し、好きで好きでたまらないと思うことは一度も無かったのにと自分の気持ちに戸惑った。
 それは孝夫も同じだったようで、冬のある夜、よく行く本屋で孝夫が私を待ち伏せて、「今はまだ、きみの趣味もきみ自身のこともわからないが、そんなきみを見ていたい」と私の腕を掴んだ。少しもロマンティックではなかったが、初めて孝夫の本心を聞いたような気がして、私たちの関係は再び始まった。
 さっきの電話で、あんなことするのストーカーっていうのよと笑いながら言うと、そうでもしなくては、あの頃のきみには、するすると抜け落ちるような危うさがあったからねと孝夫も笑った。
 彼は、もう私があらゆることに覚悟を決め、ひたすら結婚に向かっていると思っている。

 明け方から、この季節にはめずらしい雪が降り、バスも電車も人も動かない朝の街は、しんと静まりかえっていた。
「おふくろの具合が悪いらしい。今日はぼくひとりで帰るよ」
「急に寒くなったから・・・。心配ね」
そう言いながら、私は、内心ほっとして彼を見送った。
 空は雲が切れはじめ、たぶん午後には雪も消える。行けないわけではないのだ。私も一緒に行くと言えば、このもやもやとした時間を長くかかえなくてすんだかもしれない。
 一日中こたつのなかで時間をやりすごし、夕方、散歩にでた。駅裏の真夜中書店の灯りがついていたので覗くと、思いがけず孝夫の背中が見えた。お母さんの具合を聞くつもりでドアに手をかけたとき、本屋の女将が「いまは来ては駄目だ」と目で知らせてくれた。孝夫は泣いているようだった。

 夜の十時も過ぎた頃、ようやく孝夫から電話があった。
「おふくろが亡くなった」
 すぐに知らせようと思ったが急のことでと言葉を重ね、妹夫婦が葬儀の準備をしてくれているので喪服を取りに帰ってきたのだと説明する。私は「そう」と短く答えたが、何をいっても彼を責めてしまいそうで、そのあとの言葉が続かなかった。
 一年前、街中にマンションを借りるまで、孝夫は母親との五十数年の時間を田舎の家で一緒に過ごしていた。見合いをしてすぐに、孝夫に連れられ出かけたその家には、二人の思い出がぎっしり詰まっていた。いや、思い出と言うよりも、二人の時間はそのときも間違いなくあの家のなかに流れていて、自分が入り込む余地は無いように思えた。だから、彼が、彼らしくもない行動に出て再び私とつきあい始めたのは、あの家と老いた母親のために、嫁や妻というピースを手に入れるためなのだと察している。そう察しながらも、それを口にすることはできない。私にだってプライドはある。
「じゃぁ、また帰ったら連絡するよ」と電話は切れた。一緒に来てくれとは言わなかった。私はいったい、あなたの何なの。
 迷いに迷い、翌日、バスに乗って孝夫の実家に向かった。黒いバッグの中から電話を出し「お宅に向かっています。手伝うことがあれば言ってください」とメールを打ったが、返事がないまま彼の実家に着き、玄関先でコートを脱いでいると、「真紀子さん、来てくれたんですか」と驚いたような声がした。振り向くと、孝夫の妹が大きな鍋を抱えて立っていた。
「葬式っていっても、親戚もみんな高齢だから内々だけなんですよ」
 中にはいるように促され、奥の座敷に通ると、孝夫がひとり、母親の眠る棺の枕元に座っていた。
「ずっと二人きりでしたからねぇ。私とは違う寂しさがあるんでしょう。真紀子さんが来るからって母さんがたくさんばら寿司を作ってたんですよ。こんなことになってしまったけど食べていって下さいね」
 冷たい台所には、寿司桶の横に、ごろりと刻まれた人参や里芋や牛蒡やあぶら揚がはいった笊が置かれ、以前ここに来たとき「うちは田舎やから、こんなんしかないけどな」と、孝夫の母親が作ってくれた打ち込みうどんの準備もできていた。
 一人暮らしの老いた女の最期は寂しい。小さな葬式を済ませ、母親が生前作ってくれていたばら寿司と、孝夫が打ったうどんで食事をすることになり食卓を囲んだ。孝夫と妹夫婦と、町内会の会長だという九十近いおじいさんと、会長をつれてきたおばさん。そして、よそ者の私。
 町内会長が「孝夫よ、サカエさんもおらんようになった、家もこのままにはできん。帰ってこい。あんたも難しい姑がおらんようになってよかったやろ」
 おばさんも、サカエさんは街育ちのキツイ人だったから、お嫁さんが苦労するだろうと思っていたと、私をおもんばかったように言う。
 孝夫は二人の言葉にただ曖昧にうなずくばかりだ。
 三人のやりとりをみながら、どうしようもない感情がこみ上げてくる。何でも仕切りたがる姑となる人を、うとましいと思ったことはある。けれど彼女は、見知らぬまちに嫁にきて、この家を守り、子を育て、ここに自分の歴史を刻んできた。こんな簡単に話をつけられるために、今までの時間があったのではない。
 帰りの車の中で、孝夫が「ありがとう」と言った。そのあと、覚悟を決めたようにゴクリとつばを飲み込む音がして、彼が次の言葉を発する直前、 「たぶん、あんな甘いお寿司、一生つくらないと思う」
 と、私は言い放った。ハンドルを握る孝夫の手にぎゅっと力が入る。
「あれは、あなたとお母さんの思い出だから、それと戦う気も壊す気もないわ。あのお寿司は、嬉しいときも悲しいときも、あなたのそばにあったんでしょう? もっと大事にしてよ。あなたは自分が良いひとだと思われたいだけなんじゃないの。他人に言われたい放題で、お母さんを守ってあげる言葉もないの。嫁に来て五十年もたつのに街育ちだからって、なによ。お母さんのあそこでの人生はなんだったのよ。私は私、お母さんの代わりじゃない」
 孝夫は、驚いたような顔をして車を止めた。

 あれから一ヶ月。まだ寒さの残る路地裏喫茶店のストーブの前でミルクティを飲んでいる。大ぶりのカップを両手で包むようにして湯気をみていると、ゆりこさんが生姜の砂糖漬けのはいった小さな皿を差し出した。
「暖まりますよ」
 静かに微笑みキッチンの中に入ろうとするゆりこさんの背中をみながら、私は独り言のようにつぶやいた。
「五年前なら、お姑さんもいなくなったんだし、そのまま結婚していたかもしれない。でも、実際そうなったとき、そんなことで決めるのはいやだったの。孝夫のふがいなさを並べ立てて、切り捨てておきながら、まだ待っているの。馬鹿でしょ」
 ゆりこさんは、喫茶店の本棚にあった写真集のようなアルバムを広げると私に渡した。
「私ね、結婚していたことがあるんです」
 背の高い優しそうな男性とゆりこさんが笑っている。
「彼のこと大好きだったんです。雑誌にあるような素敵な結婚生活を続ける努力をしていました。でも、頑張れば頑張るほど気持ちが離れてしまって・・・。どんなひとでも、こころの一番深い所まではわからないでしょ。だから、見えているところを素直に信じれば良かったって、今は思っています。孝夫さんは、いい人ですよ」
 お互いを思い察することは大事だけれど、年齢を意識して必要以上におとなになることはないと、ゆりこさんは言う。
「結婚しないから逢わないなんて決めてしまわなくてもいいじゃないですか。真紀子さんと孝夫さんの形でしあわせになってください。女のほうがなんでも深読みしますからね、男の人は、まだそこまで考えていないかもしれませんよ」
 アパートに帰る道すがら、商店街の八百屋で橙をひとつ買った。八百屋のおじさんに「鍋かい」と聞かれ、お寿司だと答えると、「そりゃいいや」と大ぶりの橙に交換してくれた。
 父の好物だった酸っぱいばら寿司を作るとき、母が歌うように唱えていた言葉を繰り返し、私は寿司飯を混ぜる。
「お酢にはダイダイひと絞り。きりぼしだいことお揚げさん、人参椎茸忘れずに。あとはなんでもいれましょう。錦糸卵はたっぷりな」
 路地裏喫茶店を出るとき、私は孝夫に「私のばら寿司も食べてみる」と電話で聞いてみた。返事を待たずに「すごく酸っぱいけどね」と言うと、電話の向こうで「覚悟しとくよ」と孝夫が笑った。あなたの笑い声を聞くだけで、私はほっとする。

 私には、ずっとなりたい形があった。その理想を語りつづけ、しあわせでうまくいっているはずだった。そんな私が、まさか、この年まで独身とは。そりゃもう、迎えに来る王子様も颯爽とはいかないだろう。だから、今はまだ、あなたの趣味もあなた自身のこともわからないけれど、あなたとゆっくり新しい時間を刻んでみようと思う。たぶん、揺れる女心に慣れていないあなたは、何度も何度も驚いた顔をするだろうけれど、そのたびに少しずつ近づいていけると思うよ。
 もうすぐ春。来週、私は五十になる。
路地裏喫茶店 | 行くも帰るも
掌説 まちの風景
登場人物
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