川村さんの恋

「やっぱり、お塩でお清めってするのかしら」
 どうなんだろう。川村さんが亡くなったことは悲しいことではあったが、忌しいことではない。清めるようなことはひとつも無いように思う。
 お葬式で川村さんの息子さんに初めて会った。ずいぶん前から記憶が曖昧になっていたから、さぞやご迷惑をおかけしたでしょうと謝られたが、私にしてもまりこねさんにしても、心配はしてもらっても迷惑なんかかけられたことはない。
「ねぇ、ゆりこさん。川村さん、亡くなった奥さんだけじゃなかったのよ」
 ホットミルクの入ったマグカップに何度も白い息をふきかけながら、まりこねさんが言った。
「駅裏に小さな本屋があるじゃない。夜だけ開く。あそこの女将さんに恋してたの」
 本屋の前で女将さんを見つめている姿を何度も見た。女将さんのほうも川村さんの気持ちは分かっていて、本を読むふりをしながら川村さんに視線をやっていたと、まりこねさんは唇の端を持ち上げ意味ありげに笑った。

 夕方、喫茶店を閉めると真夜中書店に向かった。まりこねさんが言うような関係なら、川村さんのことを伝えておかなくてはいけない。真夜中書店は、まだシャッターが半分閉まっていたが、中から女将が手招きをしてくれたので、私は店の中にはいった。
「川村さん、亡くなったんだってね」
「ご存知でしたか。こたつにもたれて、眠るように亡くなっていたそうです」
「そう」と言うと、しばらく間があって、
「高校の先生だったのよ、川村さん。先生の初恋の相手は、わたし。おかしい? 私だって生まれたときからおばあちゃんだったわけじゃないもの」
 川村さんは高校の数学の教師で、風采のあがらないまじめだけがとりえの男だった。ある年の夏、そんな川村先生から女学生だった女将にラブレターがきたのだと言う。
 女将は「今日は、川村先生が好きだった本だけ並べるわ」と、本屋の開店の準備を始めた。禅の本や、子ども向けの数学パズル、興福寺の仏像の写真集もあった。
「ラブレターの最初になんて書いてあったか聞きたくない?」
 女将は写真集を私に手渡すと、「君は阿修羅のようなひとだ。決して勝てない帝釈天に戦いを挑んでばかりいる。しかし、君がふっとみせる無垢な少女のような姿は興福寺の阿修羅だ」
 と諳んじて、けらけらと笑った。
「阿修羅は男よ。それに、私が無垢な少女だなんて勘違いも甚だしい」
「でも、この写真集の阿修羅は荒々しくはないですね。とても悲しそうに見える」
「あなた、川村先生と同じことを言うのね」
 川村さんとお付き合いされていたんですかと聞くと、
「とんでもない。先生は周りのひとたちに、すぐさまお見合いをさせられて、あっという間に結婚したわ。そんな時代よ」
 けれど、川村さんは結婚したあとも、ずっと女将のことを気にし、亡くなる直前まで書店に来て、何か困ったことはないかと聞いていた。自分のほうがしっかりしないといけないのにねと女将は笑い、
「知ってる? 興福寺の阿修羅像は木彫じゃないのよ。乾漆っていう製法で出来ているの。粘土で造った仏像に麻布を何枚も張り重ねて、その上に漆を塗って細かな表情を造っていくの」
「仏像の保護のためですか?」
「漆が乾けば最初の粘土は抜かれてしまうわ。もう必要ないもの」
「漆だけで大丈夫なんですか」
「漆はとても強いのよ。興福寺の阿修羅像は奈良時代のものだけど、漆は縄文の頃からあったそうよ」

「そうだ、あなたにこれあげるわ」と女将が写真集と交換に小さな朱漆の器を差し出した。
「川村先生からの最後のプレゼント。亡くなる前日、そこに立っていて、同じものが家にもう一つあるから、きみにあげるって言うのよ。そんなもの私が持っておけないでしょ」
 漆は、使って洗って乾かして、そのたびに強くなるのだと女将は言った。
「いつまでも心が揺れる川村先生を支えたのは、どんなときもその漆器を使って洗って乾かしていた奥さんだもの。私は抜かれた粘土の像でしかないのよ」
 女将は、赤いマニキュアが光る痩せた掌で阿修羅像の写真を愛おしそうに撫でた。
行くも帰るも | 真夜中書店
掌説 まちの風景
登場人物
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