真夜中書店

 その男は、待ち合わせにいつも本屋を指定した。どちらかが遅れても時間をつぶすのにちょうど良いだろうと彼は言う。確かに、五十を間近にして見合いで知り合った私たちには、おしゃれなカフェよりよほど似合っていた。
 彼とのデートはいつまでたってもぎこちなく、会話につまると「まー、なんていうかね、たいしたことじゃないから」と彼が言い、私も言いたくないことを根掘り葉掘り聞くような馬鹿な女にはなりたくないと、自分が買った本を開く。だから、静かすぎる時間だけが過ぎ、やがて、私たちの関係は、しけった花火のように終わった。
 今でも、商店街や駅ビルの大きな書店で彼の背中をみかけることもあるが、そのたびに、私は逃げるようにその場から離れた。別れた男に気安く挨拶ができるほどこなれた女ではないのだ。
 そんな訳で、本はもっぱらネットで買っていたのだが、半年ほど前、駅裏通りのビルの半地下に小さな本屋を見つけた。
 その日は仕事が長引き、電車を降りるとまちの灯りはほとんど落ちていた。たぶん、そんなことでもなければ、あの場所に本屋があったなんて気付きもしなかった。
 灯りに吸い込まれるように三段の階段を降りて店のドアをひくと、赤いマニキュアを施した七十がらみの女将が一人で店番をしていた。
 こんな時間に開いている、両手を伸ばしてぐるりと回ればすべての書棚に手が届きそうな店だ。女は無用と追い出されるかもしれないと思ったが、女将は「朝まで時間はあるわ。ゆっくり選べば良いわよ。欲しい本がなけりゃ無理して買うこともないわ」と言い、読んでいた本に視線を落とした。
 ここの平台に置かれる本は常に十冊。毎日違う。女将がその日読みたいと思った本を置くのだと聞いた。だからジャンルもバラバラで、ベストセラーだのランキングだのにはいっているような本は一冊もない。

 今日も平台に置かれた文庫本から一冊を選びカウンターに持って行くと、「さっきの男も同じ本を買ったわよ」と、彼女は笑った。
 さっきの男というのは私の背中側で本を選んでいた男だ。大きな荷物が何度もぶつかり、体の向きを変えたのだが何ぶんにもこの狭さだ、男がいた間、私は体を硬くしてひたすら本を読み続けるしかなかった。
「必要以上に頑なになるのはよくないわね、今日は、この本はやめておきなさい」
 と、女将は件の文庫本を引っ込めると、なにもなかったかのように、また本を読み始めた。私は、帰るきっかけを失って、財布を持ったまま女将を見ていた。
「さっきの男は、あなたがここにいるのを確認してからはいってきたわ。今風に言えばストーカーかもしれないわよ。ストーカーなら、そのあたりで待ち伏せてるんじゃない」
「やめて下さい」
「顔をみなくたって、彼が誰であるかわかってたんでしょ、人にはにおいも気配もあるもの。自分を少々高めに見せるのはおとなの女としていいことよ。でも、自分に嘘をつくなんて愚の骨頂。人間は、ここの十冊と一緒よ。派手な話題にならなくても、良い本はたくさんあるわ」

 本屋をでると外灯の下で男が本を読んでいた。
「よく来られるんですか、ここ」
「深夜まで開いている本屋はここだけだからね」
「私が来ていること、いつから知ってたんですか」
「たぶん、君がはじめてここに来た日から。女将の選ぶ本が変わった。女将は、君がここに来続けるように仕向けていたんだ」
 そういえば、私はここに来て本を買わなかった日がない。
「その作家お好きでしたっけ」
 私は男が手にしていた本を見た。
「いや、なんていうか・・・」
「なんていうか?」
 と言葉を重ねた私に男は驚いたような顔をした。
「たいしたことじゃなくても、言ってください。そこを聞けずにいた自分を悔いています」
「この作家は・・・好きじゃない。日常の些末なことを読み続けるのは苦痛だ。でも、君がこれを読む姿は嫌いじゃない。ずっとそうだったんだ。だから、君に」
 差し出された本を受け取ると、私たちは夜のまちを歩き始めた。
 暗い通りの先には、灯台のように「真夜中書店」の灯りだけが光っていた。
川村さんの恋 | 路地裏喫茶店
掌説 まちの風景
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