路地裏喫茶店

 昨日も一昨日も、お客は十人ばかり。人通りの少ない駅裏の、そのまた奥の路地に店を開いたのだから、見つけてくれと言う方が無理な話かもしれない。
 たいていのお客は、一番最初に店の玄関をくぐるとき「ここ、お店ですか?」と聞く。
「ええ、どうぞお入りください」
 そう言うと、みんなホッとしたように椅子にすわる。それからメニューをみて、私をみて、猫をみながら注文をする。
「珈琲を一杯頼みますよ」
 二本向こうの路地裏に住む川村さんが、いつもの席から声をかける。
「ぼくはね、このあたりの町内のお世話をしておるのです。なにかお困りなことがあれば言ってくださいよ」
 豆を挽きながら私は「ありがとうございます」と頭を下げ、川村さんの足元をみた。右と左のサンダルの色が違う。右は男物、左は臙脂色の小ぶりのサンダルだった。
 祖母から譲り受けた古い有田焼のコーヒーカップに珈琲をいれ、川村さんの前に置くと、
「いやぁ、これは素晴らしい。うちにもね、こういうのがありますよ。家内が好きなんですよ」と、目を細めながらカップに口を寄せた。
 外の陽射しが明るければ明るいほど、ここから見る川村さんは影のようだ。しかしそれは、なんとも言えない風情ある姿だ。
 川村さんに見とれていると、「さっき、おたくの猫ちゃんと表通りですれ違ったわ」と、まりこねさんが入ってきた。背が高くて早口で、いつもおしゃれなスカーフを付けている。
「あの子は、ここに飼われているとは思ってないのね。ま、猫ってそういうものよ」
 私はあいまいに微笑みながら、何にしましょうと聞く。彼女は、おいしい煎茶をお願いするわと言って、窓辺の席に座った。
「まりこね」さんというのは、私が勝手につけている名前で、本名はしらない。スカーフに「MARI」とイニシャルがはいっていて、細長い手足が猫のようにしなやかなので「まりこね」と覚えた。

 まりこねさんが、雨をよけながら川村さんと入ってきたのは土曜日の夕方だった。
「ゆりこさん、タオルを貸してちょうだい。川村さんがびしょびしょなの」
 自分の家がわからなくなった川村さんは、路地の中で迷宮にはいり、困り果てているところをまりこねさんに助けられた。いや、助けられたというより拾われたという方が合っている様子だった。
 しかし、珈琲をゆっくり飲み終えると、川村さんは三百円をポケットから出し「じゃ、戸締まり気をつけるんですよ。なにかあったら言ってきなさい」と、いつものように店を出て行った。
 私も、まりこねさんも、大丈夫ですかとはきかず、静かに見送った。
「川村さんは、あちらの世界とこちらの世界を毎日旅しているのね」
 まりこねさんが呟いた。

 雨がやんだ。
 まりこねさんが「歩こうよ」というので、店を早じまいすると私たちは散歩にでた。このまちに来てから、どうしようもない事があると、私はとめどなく歩くようになった。歩くと、いつの間にか心がふっと軽くなる。
「歩禅」という言葉を教えてくれたのは川村さんだ。
「禅はなにも座禅だけではないのですよ。食べることも歩くことも禅。生きることすべてが禅かもしれませんな。なにも求めず歩いてごらんなさい。ゆりこさんのこころの重しも軽くなるはずですよ」
 川村さんの言うとおり、あれもこれもと考えなくなってから、季節の巡り方がかわってきた。風のにおいを感じるようになってきた。
「私たちってさ、自分が一番しっかりしていると思って他人のことをあれこれ言うけど、それっておごりよね」
 少し前を歩くまりこねさんが長い尻尾をくるっと揺らし、薄く顔を出した太陽にむかって伸びをした。
真夜中書店 | こころの一番深いところ
掌説 まちの風景
登場人物
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